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⑮365日後の4月

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 意味分からないかも知れないが、1年前の4月の印象的な日々をまとめる。 書かないと先に進めないのは曲も日記も同じだな。 昨年の4月にザ・ラヂオカセッツの山下秀樹と札幌にツアーに行った。 それよりも数か月前からずっと構想を練ってツーデイズ分の出演者も揃えた。 元々は、ヒデが但野正和と札幌でライブしたいと話してくれて、それならオレも一緒に色々取り組んだ方が面白くなるんじゃないか、とそんな始まりだった。なのでツアーは同い年3人で敢行する事を冠し、タイトルは「エイプリルブルー」と名付けた。 いよいよツアー数日後という頃に、下北でヒデと路上で話していると、突然、THE BOYS&GIRLSのシンゴから連絡がきた。オープニングアクトで良いので出演させて欲しい、という内容だった。もともと誘いたいという事はヒデとも話していたが、シンゴの今の頑張りは次元が違う気がして、敢えて声をかけていなかった。これで全部揃ったね、とヒデが言ってくれたのが嬉しくて、ツアーに交ざれて良かったなと思った。 当日、空港行きのバス停で待っていると、ヒデが寝不足な顔で来た。なんだかあまり寝れなかったみたいだ。空港まで、何を話したか忘れてしまったが楽しい時間だった。 飛行機で新千歳に到着し、そのまま札幌へ向かい、円山にあるリボルバーに向かった。初日にここを選んだ理由は、僕が上京してまだ半年後くらいの頃に、札幌のちさとちゃんという女の子が企画を組んで僕を呼んでくれた場所で、その時の初めてのリボルバーが忘れられず、今回やるならここが良いとすぐに思い立ち、カネコトモヤに連絡をし、繋いでもらった。初めてのリボルバーではトモヤとも共演していたので、今回も出てほしいと思い、オファーをしたら二つ返事で快諾してくれて、嬉しかった。そして、あずまりゅーた、瀬川浩平akaしっぱいまんも出演してくれて、メンツとしては完璧な布陣だった。 リハで正和が、オレのサンプラーを眺めて、「オレもワンマンとかで使ってみたいんだけど、調べたら結構高いね」と照れたような笑みで話してくれたのは個人的にはハイライトだった。 オープン前から沢山のお客さんが来てくれて、シンゴが歌う頃には既に会場は埋まっていった。さすがの求心力だし、オープニングアクトを買って出るあたり、漢だなと思った、ありがとう。いつかオレもその次元まで追いついたらツーマンし...

波の小さな終着駅からまた漕ぎ出して。

  一年前まで遡って書いていたブログ、前回の続きは昨年の8月19日の2度目のワンマンまでの日々を書いていく予定だったが、一個違うブログを書こうと思い立った。 もう夜も遅くて時間も無いけど、書ける事は残しておこうと思う、稚拙な文になるだろうけど良ければお付き合いお願いします。 前回のブログでは、昨年の2月1日に、初めての渋谷ラママワンマンをやった時の事を書いて、バンドやりたい、と締めた。 昨年の夏の終わりあたりから、シゲさんと西方君と3人で何度か逢うようになった。 ふとした感じで逢う時もあれば、ちゃんと予定して逢う時もあった。新宿の公園、高円寺、幡ヶ谷、下北、そしてある日シゲさんが、勝ちに行くバンドをやらないか、と提案してくれた。それはとても自然な空気が流れている中での発言で、心に、すんと入って来て、3人でバンドをやる事が決まった。良く考えると凄い事なのだが、なんだか穏やかな風が心に吹いていた。それからバンド名を3人で決めるために色々話したりしたが、思いの外、時間がかかった気がした。 どういう流れでそこに落ち着いたかいまいち覚えていないが、 本当は誰か という名前に決まった SNSで検索しづらい厄介な名前で、気に入ってる。 僕は2013年の5月1日に1人で札幌から上京して来た。 札幌でやっていたバンドを解散して、東京でまた一からバンドをやりたくて、来た。 けれど、なかなか上手くいかず、結局1人で歌うことばかりが増えた。バンドをやりに東京に来たのに、音楽すらやれない時間も長くあった。それはとても空白な日々で、あまり記憶に無い。 そんな時間からなんとか這いつくばって抜け出したくて、2024年の夏くらいからサンプラーとエレキギターで、1人でライブに挑戦した。それはそれで孤独な日々だったけど、その中で新しい出逢いや経験を多く出来て、やって良かったなと思っている。 そして、やっぱりその先で、僕は、本当は誰か、とバンドがやりたい、とまた思えるようになっていた。 昨年の10/27の浅草ゴールドサウンズでの企画を最後に、一旦、1人でのライブを止めて、バンドに集中してみようと決めた。 初めてのライブは、今年の1/24、東高円寺ロサンゼルスクラブだった。サポートドラムにコリドラスの大西君を招き、4人編成でライブした。中音は混沌としていたけど、ステージに仲間がいるのは本当に嬉しくて...

⑭msr

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  "2025年、mind soundへの旅” 2025年が始まり、1/9東新宿LOVE TKO、1/15阿佐ヶ谷ロンサム、1/24豪徳寺リーフルームと歌い、いよいよ2月1日の渋谷ラママでのワンマンにたどり着いた。この日々を綴ってきたブログは一旦これがラスト。読んでくれてる方がいるなら、ありがとう。これから今年の2月1日の事書いていく。 ワンマンでは、3曲のバンド演奏、レコードの発売、今日の手紙の展示、という事を試みた。 3曲のバンド演奏をやるにあたり、ドラムに大谷ペン(ザ・ラヂオカセッツ)、ベースにヨシヒロシュンペイ、キーボードに内藤重人を呼んだ。2013年の上京したての頃に声をかけて集まってくれたメンバーと同じだ。超太郎にも連絡したが、タイミングよく連絡が取れなかった、ここでは正直に書くが、とても本当は一緒にやりたかった。スタジオは2時間くらいの練習で十分なくらい、特に言うこともなく、良い演奏の準備が出来た。あとは自分が頑張ればいい。 レコードを発売するにあたって、色々と考えなくてはいけない事があった。まずなぜレコードかというと、制作の過程を経験したかった、というのが実は理由の一番にあった。そしていつかレーベルというものの機能を自分に持たせたいと思った事もあり、そのレーベルの語源をたどると、レコードの中心にある「アーティスト名」や「曲名」を記載した「ラベル」からきてる事を知り、尚更、まずはレコードだなと思えた。しかし、アナログレコードをまず作成出来る会社がそんなには無く、かつ金銭的な事などを考えたりすると、プレスする余裕はなく、どうしようと思っていたところ、大分に、一枚から作成出来る会社を見つけた。職人のダイレクトカッティングで作成するダブプレートと呼ばれるそれは、60年代のレゲエシーンに由来を持つ。「サウンドクラッシュ」と言われ、自分たちの音源を爆音でスピーカーで鳴らし合うスピード感が大事なそのバトルにおいて、プレスしてる暇はなくかつローコストで作成できるところからダブプレートという手法が重宝されていたとの事で、まさに自分の置かれてる状況下に近いものがあり、これだと決めて、3枚だけ制作を依頼した。 レコードが自宅に届き、再生した時は流石に感動して、ずっと眺めていた。 ここでは正直に書くが、それでも一枚あたり1万円程の制作費がかかる(枚数が増えれば単価...

⑬PS

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  2024年の12月25日、阿佐ヶ谷ロンサムでライブ。 ”2025年、mind soundへの旅”と名付けたツアーのような日々も2024年の最後にたどり着いていた。このブログを読んでいる数少ないあなたは気付いたかもしれないが、僕は2025年の大晦日に1年前のクリスマスのブログを書いている。意味分からないかもしれないが、これがやりたいのだ。時間が出来る度、短くても良いから、この日々をどんなに時間がかかっても残そうと決めていて、気づいたら2025年が終わる。毎ライブではないにしろ、「今日の手紙」という形でライブに対する思いを書いた文章が手元にあるおかげで、1年前の事でもぼんやりだが思い出す事が出来る。この日の「今日の手紙」もいつも通り、阿佐ヶ谷駅のロータリー前の広場でオープンからスタートの間に書いた。石で出来たベンチのようなところに座っているとカップルや子供連れの家族が、僕の方へ携帯を向けているから、何かと思えば、僕の後ろにイルミネーションがあったのだ。そうか、クリスマスか、とそこで思い出し、僕は冷たくなったお尻をさすりながら手紙を印刷する為にセブンイレブンへまっすぐ歩いた。 ロンサムは2024年も本当に沢山出させてもらった、相変わらず感謝でしかない。この日は、ヨシヒロシュンペイ、内藤重人、佐々木泰雅の3マンで開催された。お客さんは2人だけだったけど、この3人でロンサムで歌えた事が僕は嬉しかった。 小さい頃、クリスマスプレゼントにプレイステーションが貰えた時、そういやあの時も心の底から嬉しかった。

⑫どうしようもなく小さな空

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2024年の12月20日、路上ライブでまた吉祥寺で歌おうと思った。           前回の高円寺や新宿東南口よりも少しばかり安心感があるのには理由がある。         何度もブログにも書いてはいるが、上京したての頃や、札幌から遠征で東京に来ていた時も、何度も何度も吉祥寺の街で歌ってきたのだ。 ”2025年、mind soundへの旅”と名付けた渋谷ラママワンマンへの日々。 その一つにこの吉祥寺という街を選んだ。場所はダイヤ街というアーケード街。ここで何度も何度も歌ってきた。少しだけ街の景色は変わり、あの日のダイヤ街とは、もう匂いが違っていたけど、それでもまずは声を出さなきゃ始まらないし、変わってしまったのは僕も同じなのだ。 あの頃は何一つ路上で歌うことが怖くなかったが、この時は声を出すのが恥ずかしくなった。出来る限り自分の詩を歌おうと歌っていたら、結局自分の曲しか歌っていなかった。1時間半くらいで、立ち止まる人も誰一人いない東京の12月の寒空の中、僕はアコギをケースにしまい、すっかり冷えてしまった足首をさすりながら京王線の駅へとまっすぐに歩いた。前回の高円寺では1曲しか歌えずに、帰り道で泣けてきた事を思い出して、それよりはマシか。。なんて思いながら各駅停車の列車に乗って、車窓から東京の夜空をただ見ていた。 僕はいつまで詩を歌えるか。少なくとも1秒後はまだ声が出るし、詩も歌えるし、なんなら叫ぶ事だって出来るだろう 。

⑪傷だらけの青春

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 2024年の12月も半分を過ぎた頃、久しぶりの新宿駅東南口での路上ライブから数日後。 僕は高円寺に向かっていた。上京する前には随分と高円寺に憧れていたけど、東京に住みだしてからはめっきり行かなくなった。上京したすぐの頃に、死ぬほど酔っぱらったことがあるが、あれはぼくにとってとても大事な記憶だ。凄く孤独で切ない感情だったけど、同時に魂が燃えていた日々だった。 路上ライブを続ける中で高円寺で歌ってみようと思った。そういや高円寺で路上ライブをするのは初めてだった。初めて歩く長い細い路地をギターを持ちながら歩き、駅前のガード下で歌い始めた。2曲目を歌い始めた瞬間、警察のお兄さんに止められてしまった。その方はとても遠慮気味に、通報が入るとこちらも止めなくてはいけなくてごめんなさいね、と言った。高円寺は以前と違い路上ライブもやりづらくなっているとも言った。片づけをして警察のお兄さんに頭を下げ、また2度目の長い細い路地を帰った。少し切ない気持ちになった。久しぶりに孤独を感じたけど、上京した頃の感じとは違って、それがまた寂しかった。もうあの日みたいには歌えない自分に悲しくもなった。新しい詩を書かなければね。 アイデン&ティティを見て憧れていた高円寺の街も、あの日の佐々木泰雅も、もうどこにも居ない。 佐々木泰雅

⑩直線と曲線の交差点

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いつまでも終わりたくないけど、 終わりがあるから解放される事もあって。 僕の音楽もいつか必ず終わるから、 まだまだ歌わなきゃって思えるんだろう。 路上ライブを初めてやったのははっきりとは覚えていないけど、 本当に心から震えながらやっていた気がする。 札幌で7年くらいバンドやソロでステージに立つにつれて、 ステージに立つことへの恐怖は消えていった。 いつからか全く緊張もしなくなったし、今思うと20代前半の圧倒的な自信があった。 けど、たまに路上で歌うと、まるで初めてライブするかのようなドキドキに襲われる。 上京する半年前の2012年の大みそか、この日から、東京に行く寸前まで、 毎週、札幌の狸小路で路上ライブをした。 初日の大みそかの日の1曲目は、チャットモンチーの恋愛スピリッツ。 信じられないくらいの極寒で雪も降ってなかったけど、3人くらい見に来てくれたのを良く覚えてる。3人は僕の事を覚えているだろうか。 気付けばクリスマスや大みそかや正月なんていうイベントごとは家でゆっくりするようになったけど、かつてはそういう日こそ街に繰り出していた。随分とださくなった自分を感じるが、これからは別の角度で何か新しい自分を見つけれたら良いのかもしれない。 2025年の12月14日に久しぶりに、新宿東南口で路上をやった。 上京した2013年頃は、よくここへ自転車で来ては歌っていた。元旦から3日間連続で歌おうとした事もあった。サラリーマンたちと一緒に歌ったりもしたし、警察にも何度も止められた。かなり思い出深い場所であるが、背中を甲州街道が駆け抜けてるので、なかなかに過酷だ。ちなみに僕はマイクやアンプを使わない。東南口ではそういや生声の人は見た事がない。 久しぶりに東南口で歌ってみたが、こんなにも過酷なのかと思い知らされた。 全力で声を張り上げないと全く聞こえない。 でもこの感覚だ、これがまた味わいたくて、ここへ来たんだ。 路上が終わったあと、どこからともなく男性がはなしかけて来た。 路上ライブに興味があるみたいだった。 僕の詩を聞いていた訳ではないが、はなしかけてきてくれたのは少し嬉しかった。 来年2月1日に渋谷でワンマンやるんで来てください、と伝えたら、ありがとうございます、と言って彼は新宿の街に歩いて行った。 彼はワンマンには来なかったけど、どこかで旅を続けているかもしれない。 幸運...