2017年10月31日火曜日

10.30

私の窓。
10.30の東京の日の話。

雨が少し降り、風がめっちゃ強い日。
いつぶりだろうか、久しぶりのビーハプに出演させてもらう為に渋谷LUSHへ向かう。
そうか、10月の末は渋谷はハロウィンの真っ只中か、と、ゾンビ達と警察官を横目に慣れた足取りで宮益坂を登ってキンコーズの前で左折のいつもの道。
着くと大野翔平という男が歌い始めるところで、一瞬挨拶した時の感じが良い意味で引っかかり、ライブを全部見た。最後にやっていた、あした、という歌が凄く良くてグッと来た。それを翔平に伝えるととっても喜んでいて。そこから翔平が鹿児島から上京して来た事、その日暮らしの清大と友達な事、札幌にも良くツアーで行っていて、ローグで長津さんにジンギスカン振舞ってもらった事や、最近モトヨシ君と知り合った事や、、出るわ出るわで話しが尽きなくて30分くらい。セットリスト変えようかなと思うような出逢いだった。

その後、共演を心待ちにしていた元ひらくドアのタカユキカトーさんのライブを見た。何度も何度も聞いた、ミニアルバム、という歌を二曲目にやってくれて本当に嬉しかった。セットリスト全部いい曲だった。

22:40過ぎ頃。
自分の出番が来た。8月のライブ以来に使う登場SEに背中を押してもらい歌い出す。

1.マイフレンズアンセム
2.under
3.July
4.アンドロメダ
5.レインマン

今年の2月8日に当時最終少女ひかさのボーカルだった但野正和とのツーマンを下北沢SHELTERでやってから、オレの何か大事なモノが一つ終わってしまって、それから自分はどんな風にライブをすれば良いか、何を指標にして進めばいいのかわからなくなっていました。ですが、今日のライブでその突破口が少しだけ、ほんの少しだけ開けたような気がします。それは結局、自分を育て作ってくれた先輩方の歌の中に光があったんだと思います。LUSHのステージで自分が誰よりも自分の詩、信じてあげれました。それは本当に嬉しい事でした。

帰りはビーハプの水口さんとタカユキさんと一緒に渋谷駅に向かう為、宮益坂を下りました。慣れた足取りだと思ってはいたのですが、やっぱり、あぁ、東京だなと感じる自分がいて、その混沌を真っ直ぐに突き抜けるような詩がその日の自分のセットリストの最後の曲で良かったと感じました。

自分の詩を歌うという事。
誰かと似ている部分はあるモノの、やはりやらなきゃいけないのは自分の詩を歌うという事。そして自分らしくあるという事。そしてそれを信じてあげる事。
もう後戻り出来ない道をだいぶ前から歩み始めて、そのスタートや道すがら出逢った先輩や友達の歌を灯台にして、それだけを信じてなんとかここまで生きてきたんだ。
自分の詩を歌うという事。歌い出した声、ギターのストローク、髪の動き、リズムの取り方、メロディ、言葉、それを放つ先を見据える目。自分の詩を歌うという事を笑
ってもらったり、楽しんでもらったりしたい。それ以外の方法やなんかで場を誤魔化してキッズを騙すような事はオレには出来ないし、そんな事をするくらいなら死んだ方がマシだ、とオレは勝手に先輩方の歌から教わった。

もしもこの道が間違っているのだとしたら、死ぬ寸前で自分に影響与えた歌達の事を恨みながら、その音源を棺桶に全部ぶち込んでオレごと燃やしてください。


2017年10月29日日曜日

10.29

私の窓。
また久しぶりの更新になりました。
佐々木泰雅です。
東京は台風が去ったと思ったらまた雨の日々です。最近はいつも雨が降ってるような気がします。

昨日。
新宿JAMというライブハウスでリンダリンダラバーソール四人揃って最初で最後の練習をしました。3人編成、2人編成で出演したり練習したりはあったのですが、フルメンバーではこれが最初で最後の4時間でした。

新宿JAM。
思い返せばキーボードのケイが通っていた大学の部室で、パソコンかりて東京のライブハウスを検索した時からの話になります。
リンダリンダラバーソールで東京でライブをしたいと、なんのコネもツテも無い札幌の無名バンドは思い立ち、東京のライブハウス20カ所くらいにデモ音源と雑な手紙を送り、その中で連絡取り合えたのが、今はなき下北沢屋根裏と新宿JAMでした。
2011年の2月8日にオレは生まれて初めての東京、そして生まれて初めての下北沢の街の、屋根裏というライブハウスでライブをします。その日出ていた国家権力ってバンドが「リンダリンダラバーソール」という曲を演奏した時は驚きました。
その翌日2月9日。
生まれて初めての新宿という街、あの時見た小田急百貨店の自動ドアの先の青くて高すぎる空は、ずっと忘れられないくらい途方も無く広かった記憶があります。
そしてJAMに着くとThree Questionsのシゲさんがいて、少し話して初対面なのに、一緒にツアー回ろうよ、とか言ってくれて、オレとJAMの出逢いはそれでした。シゲさんはライブを褒めてくれてそれがすごく嬉しかったのを覚えています。
東北大震災が起きる前の東京は、今よりもずっと夜が眩しかったです。

そして2011年5月にJAMFES初年度が開催されて、オレらは二日間で三回のライブをしました。その時に経験した思いというのはまるで音楽の宝物の時間のようでした。
新宿JAMでライブをした事がきっかけになり、札幌に初めてTHEラブ人間が来るときにソロで、またそれから二回目の来札ではリンラバで共演したりもしました。

その次の年は二人編成でJAMFESに出演しました。アサトアキラやザ・ラヂオカセッツと出逢い、僕らの街の企画に出演してもらったりしました。それはそれは忘れられない日々でした。
その年の12月14日にリンダリンダラバーソールは一度解散します。東京最終公演も、もちろん新宿JAMでした。

それからは5ヶ月間お金を貯めてオレは2013年5月に東京に引っ越します。そして佐々木泰雅として三度目のJAMFESに出演し、毎日新曲を書きました。JAMFESの打ち上げで副店長のカズマさんにJAMで働きたいと伝え、同月の5月13日あたりからオレは新宿JAMのスタッフになりました。
それからの日々というのは本当に凄い日々でした。JAMというライブハウスを札幌からしか体感してなかったので、実際にその体内で生きるというのは本当に凄い日々でした。JAMは本当にボロくて臭くて汚くて、毎日どうしようもないインディーズバンドがもがいていました。初めてライブハウスのスタッフになったのでショッキングな事もかなりありました。バー営業をし、一人でJAMを掃除して閉めて帰る事が多く、フロアに吐かれたゲロを朝方4時過ぎに片付けてるというのはなんとも言えない気持ちになりました。
そしてオレはフロムTokyoというバンドを始め四度目のJAMFESでは夢だった大トリをやらせてもらいました。
その3ヶ月後には新宿JAMで佐々木泰雅VSササキタイガというワンマンライブをやりました。その昼の部で、オレのワンマンを盛り上げるイベントをやってくれて、いつもだいたいカバーしかやらないよもさんが、オリジナルをやってくれたのはとても嬉しかったです。
その1ヶ月後にはYDOでんじゃらす弾き語りとJAMでツーマンをやりました。
そのくらいから副店長のカズマさんがマネージャーとしてついてくれるようになり、5年目のJAMFESで二度目のトリをやらせてもらい、その時に見た光景というのは本当に凄くて一生忘れないと思います。アンコールで着させてもらったよもさんTシャツからよもさんの匂いがしたのをとても覚えています。

バンドマン側から見ていた石塚店長も、それはそれは面白かったんですが、スタッフ側から見た石塚店長はもっと強烈でした。本当に尊敬している凄い人です。平日のブッキングの顔合わせとかでも腹抱えて笑ってしまうくらい面白い日がたくさんありました。

フロムTokyoで2015年の大晦日に念願だったJAMでのカウントダウンイベントもやりました。2013年、2014年とスタッフとしてカウントダウンを見守るだけだったので、いつか自分もやりたいと思ってた夢が叶いました。
ステージ向かいの壁に貼っつけてあった黒い電光時計がもうぶっ壊れてたので、同じやつの白いのをその日JAMにあげて、フロムTokyoはバンド編成での活動を休止する事にしました。

そしてまた歌い出した時もJAMでした。

リンダリンダラバーソールで出逢ったJAMが、フロムTokyoでまた絡み合い、そして今も捻れたりこんがらがったりしながらJAMと共に生きて来たんだと思います。

先程、未完成VS新世界という最高なバンドを見てきて、歌詞で、この歌が終わった瞬間にもう二度歌えなくなったっていい、ってあって。ライブというのは本来そうだなー、と、という事はどこでやろうが誰とやろうが、そんな事はどうでもいいはずなんだ、けど、じゃあJAMがあそこから無くなるのはどうしてやっぱり寂しくなってしまうのだろう、と思ったら、そうか、別にJAMはライブハウスだけど、音楽やバンドだけじゃなく、カルチャーとしてそこに建っているからなんだなとわかりました。時代が変わると言えば大袈裟だけど、そんな感じなんだと思います。寂しいです。こんなに関わった場所はライブハウスや他も含め、ありませんでした。

まだ2ヶ月あるので出来る限りJAMに出演出来たらいいなと思います。恐らくあと3回くらいやれそうなんで。嬉しい。