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2016.12.20 「死ぬまでドキドキワクワク」 奥山京についての話


16歳の4月に新学期が始まり、オレは奥山京っていう細い男と同じクラスになった。
京から見たオレの初めての印象は知らないけど、オレは細い人だなーと思っていた。その頃の京の髪形ってしばらくその後変わっていなかった気がする。
いつも教室の後ろでぴゅーと吹くジャガーを読んでいたような気がする。
京とちゃんと話すようになるのは、オレがいろいろ悩みだして孤独になっていた頃からだと思う。
ある日から一緒に帰るようになった。帰りの方向も一緒だったから一緒にスクールバスで帰った。
あの思い出のバス停で何十分も二人で待っていたんだろう。あの頃オレら何を話していただろう。忘れてしまったよ。
オレが経験した恋愛やどうしようもない事も、京はだいたいを知っているし見ている。京が経験した恋愛やどうしようもない事も、京がオレに思うようにオレも知っているつもり。わからんけど。

17才になった年の年末に初めてバンドを組んで札幌のサウンドクルー(もうなくなってしまった旧の方)でライブをした。バンド名は「さくらボーイス」、ゴーイングステディの「さくらの唄」から影響うけたの丸わかりだね。メンバーはボーカルギターがオレ。ギーターコーラスさとし。ベース千葉しょー。ドラムはゆっち(リンラバの)、曲はゴーイングステディ。
京は計5回やったさくらボーイズのライブを唯一5回全部見に来ていた。今思うと何でかわからないけど。京はいつもいた。

オレ達は高校を卒業した。

17歳は終わり、それぞれの道に進んだ。オレは専門学校へ。京は大学へ。
オレは専門に行きながらもバンドがどうしてもやりたくて、外山君とゆっちを誘い「ウンコワープ事件」を始めた。ウンコワープ事件は精力的に活動して、オリジナル曲でライブをするようにもなる。
ちなみに「ウンコワープ事件」というとても印象的な名前にスピリチュアルラウンジの店長新保さんが反応し、オファーの連絡をくれたのが僕らの大きな一歩だったと思う。今でも本当に感謝しています。その頃に京が一体どんな風に生きていたのか僕は知らない。

しばらくして京から連絡があり待ち合わせをして僕の車の中で話した。

「ウンコワープ事件にギターで加入させて欲しい」との事だった。白いダブルのライダースに白いボトムを合わせた良くわかんないファッションセンスでよくわからないバンド名のバンドに強い意志で加入を希望をしているのが伺えた。僕は少し考えさせて欲しいと伝えた。その話をゆっちと外山君
に話した。二人は京がギターをちゃんと弾けるのか、そこを気にしていた。案の定悪い予感は的中し、初めての4人のスタジオはひどいもんだった。次のスタジオまでに最低限弾けるようにと京に伝え、京はその瞬間から「ウンコワープ事件」のリードギターになった。

4人初めてのライブもスピリチュアルラウンジだった。
そして4人2回目のライブが「煙草スモーキー」という同世代のバンドの企画。この日に4人で出演した事がオレらにとって何か大きな一歩になった気がする。この日初めて「ハローエッチな女の子」を新曲として演奏。2008年の頃だ。京は煙草スモーキーのメンバーと仲良くて、その関係で煙草スモーキーと後に改名後リンダリンダラバーソールとして北海道ツアーもやった。このツアーで京はなんかの罰ゲームの罰で頭のてっぺんを剃られ河童になる。その後さすがに人間界で河童としては生きられないので僕が断髪し坊主にする。煙草スモーキーの長はそれを見て「シリアス坊主」と呼ぶ。京が行っていた大学のイベントに出たり、勝手に学校に侵入してPCで作業したりと大学にはかなり世話になった。


このペースで書いてくと日が昇るので少し割愛、、、。


4人で活動できなくなり3人になり、最終的にリンダリンダラバーソールは京とオレの二人になる。2011年の頃だ。一緒に東北にもツアーをし、衝撃的なモノをたくさん見た。
それから少ししてオレらはアルバムの録音を始める。「ぼくらの旗」14曲入りのフルアルバムだ。
そのレコ発として3デイズで企画をした。ザ・ラヂオカセッツと内藤重人を東京から呼んで。ホントに言葉にならない程素晴らしい3日間だった。そしてリンラバは解散した。

ここまで書いてて気づいたけどオレにとっての京の記憶って、オレの事なんだな。なんだそれって感じだけど。オレが一人東京行く寸前の路上から京は遠くで見守ってくれていたのだろうか。それともオレなんか嫌いになっただろうか。オレが京の事を思い出さない時も、誰かが「京が泰雅を思っているよ」と教えてくれたりすることが何度もあった。


今年の4月、下北沢で京と2人で呑んだ。
京は「JAMFESに二人で出ないかい?」と僕に言った。リンラバをやろう。ということだ。
僕はしっかりと受け止めしっかりと断った。ステージに立つのを辞めていた時期だったし、リンラバだけをJAMFESでやるのは出来ないと伝えた。京は少し寂しそうに笑っていた。そして「だよね」みたいな反応をしたような気がする。
「JAMFESでまた」と別れて僕はチャリで10分の自宅へ、京は札幌へ帰った。

京率いる奥山漂流歌劇団は今年のJAMFESの大トリだった。なかなかやるなと思えるライブだった。その何日か後に新宿Marbleで「アーケードソングフロムシンジュクマーブル」っていうやばいタイトルのイベントがあって僕は出来る限り気付かれないようにMarbleへ行った。その日の奥山漂流歌劇団はさらになかなかやるなというライブだった。オレは少しだけ「京に負けるかも知れない」と初めて思った。

それから少しして京からツーマンを札幌LOGでやろうと連絡が来た。
僕はすぐに承諾した。それは勝つか負けるかわからないギリギリの勝負が出来る奴だと思ったからだ。絶対伝説の夜になる。そう思った。
でも自分の30歳の誕生日にかぶせてくんのはホント意味わかんないけどね笑


いつからか魔法や奇跡のような出来事が起こる事を僕らは忘れてしまったけど、今からでも遅くない。またありえないような不思議な出来事が僕らに巻き起こるような、そんな夜にしたい。また心の底から嘘偽りなくドキドキワクワクしたい。そんな夜にしたい。


12.20札幌LOGに来てほしい。
オレが京に負けるかも知れない夜を見に来てほしい。
そしてただのクラスメイトのツーマンを見に来て欲しい。








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