9.26"あなたは花になって、わたしの血に咲いた。" リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 9月 26, 2022 9.26綺麗な空だったまるで初めてこの街に来て見上げた空みたいだったこの空がどこまでも広がっているんだ自分の魂を全てこの空に解放したくて生きている走って息が上がっても、あの瞬間が生きている事を生かしてくれる歌い続けて喉が枯れても、あの瞬間が歌っている事を歌っている愛しい人よ、ずっと生きていてくれきっとそこまで届けるから佐々木泰雅フロムTokyo リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
①1年前 5月 23, 2025 長くなりそうだがゆっくりでも書いていこう。 ちょうど1年前くらいの5月にニュータウンというバンドをやっていた柳田と吉祥寺で飲んだ。その少し前に渋谷ラママで開催された「少年の叫び2024」に僕は出演していて、そこで柳田と4年ぶりくらいに再会した。柳田はGABIGABIに出演していて、アコギで歌っていた。 出番が終わった柳田に話しかけて、一緒に矢野さんがやってる「はまこ」に行った。 それから少し経って吉祥寺のハモニカ横丁で柳田と待ち合わせをした。同い年であの頃新宿JAMで何度も共演してたけど、2人で飲むのは初だった。その日のハモニカ横丁は活気があり、立ち入った飲み屋の2Fから酔った客が路地に転がり落ちてきていたりした。僕らは、何気ない音楽の話や、生活の話なんかをした。柳田は、もうすぐ2人目の子供が生まれるんだ、と嬉しそうに言った。 あれから1年経つがそれっきりまた逢えていない。またハモニカ横丁に誘ってみようかな。2人目の子供もそろそろ1才になる頃かもしれない。 柳田と逢った少し後、初めて阿佐ヶ谷でライブする機会をもらえた。下北沢のモザイクやDYキューブでブッキングを担当してたミエダさんが僕を誘ってくれた。初めて出演する阿佐ヶ谷ロンサムで、僕は初めてサンプラーとエレキギターでライブをした。めちゃくちゃ緊張したし、どんな風に思われるか、分からなかったけど、自分にはこれしかないと思っていた。その日のライブを気に入ってもらえたのか、それからはロンサム店長の森本さんが、毎月のように呼んでくれるようになった。ライブがなかなか出来ていなかった僕にとってこれ程嬉しい事はなかった。 その頃、リンラバの2023年に作成していたデモをRemixしていた。よくDTMと向き合って1日に何時間もヘッドフォンをしていた。完成したものにゆっちが映像をつけてくれて、リンラバの2023年末までの活動が一段落ついたような気がした。作成した4曲は、今でもとても特別で、まだまだ何か伝えられる力を持っていると思っている。 青春の光 OVER DRIVE 未来 メロディライン 初めてまともに田高くんと話したのもこの時期かもな。一度豪徳寺で共演しているけど、あんまりちゃんと話してなかった。LOVE TKOでワンマンを終えた彼に少しだけでも逢えて良かった。 それからまた少しライブが空くんだけど、幼馴染の健太と... 続きを読む
⑧最後の旅 6月 24, 2025 それまでの自分に比べたら2024年の11月はライブを沢山やった。 自分のライブは4本。大塚SOHO、茅場町TAKAITOW、阿佐ヶ谷ロンサム、 浅草Gold sounds。ライブが増え始めて来てから初めて出るようになったライブハウスに立て続けに出演させてもらった。相変わらず動員は無さすぎるが、ライブは頑張った。どれも、その瞬間最高なモノを出した。 その月の最後のライブは西永福JAMで、内藤重人のバンドでギターを弾く日だった。 新宿JAMの頃から数えたらもうどれくらいライブしたか分からないくらいやった場所。 でも、サンプラーとエレキギターでライブするようになってからは、いまだに西永福JAMには出演していない。 いつか最高な形で出演したい。 内藤重人のバンド編成には何度も参加させてもらって来た。 僕が歌えなかった時に、誘ってもらって、一度抜けたりもしたけど、また一緒にやらせてもらってる。一度離れた時に、一緒に曲まで作ったのに、何故かまた戻って一緒にやり始めた時の感情があまり思い出せない。少し強くなれてたらいいんだけど。 この日見たNO FUNがめちゃくちゃ良かった。 10年以上前に、京都GLOWRYで、当時ピアノガールってバンドのボーカルだった彼に挨拶をさせてもらった記憶があって、今はNO FUNのボーカルって事で、ここで繋がるのは嬉しかった。彼は多分覚えてないだろうけど。 珍しく、打ち上げで話せる人が沢山居て安心するなぁと感じる日だった。 ギターの歪みを褒めてもらえたのも嬉しかった。 2024年の11月の5本目のライブが終わって、僕はいよいよ翌年のワンマンまでの日々をツアーと銘打ちながらライブを始ようとしていた。 次回はそこから。 続きを読む
⑥手紙に出来ない思い 6月 14, 2025 ワンマンまでの日々を、ツアーと銘打つまでには、ワンマン発表から2か月の時間がかかった。 それまでに何を感じていたかを今正確に思い出すのは難しいが、2024年の11月8日に大塚SOHOでライブした日を境に、めちゃくちゃ久しぶりに”今日の手紙”を復活させた。これは2013年5月1日に東京に引っ越してきて、その翌日から出演したJAMFESで書き始めたものだ。何かに感化された訳でもなく、必然的に気づいたら書いていた。新宿JAMの1階のスタジオ前に、雑に作られた物販スペースがあり、僕は遠慮気味なのかB5サイズで印刷したその手紙を並べていた。酔っぱらった奴らがその上にビールグラスを置いているのを見て、許せなかったのを今でも覚えている。 それからしばらくは、ライブの度にその手紙を書いていた。”今日の手紙”なんて名前も、当時は何もついてなかった。ただ、自分にとって必要な行為だった。いつからか分からないが、今から5年前くらいから、ぱったりと書くのを辞めてしまった。それはライブに対する気持ちの変化と直結していたと思う。寂しいことです。 でも、僕は、やっぱりライブは辞めれなかったし、何か月もライブがない日々も、毎日毎日ライブや音楽の事を思って電車に乗ったり降りたりした。ライブだけがやりたいわけじゃないけど、ライブ以外の事がやりたい事なのかと自分に問うと、それはやっぱりライブや音楽の為にやってるんだという答えが何度も心の中で聞こえた。 何かに感化されて始めた訳じゃないこの手紙を書くという行為に、数年ぶりに自分で自分に感化されて、”今日の手紙”なんて名前まで付けて、また書き始めた大塚SOHOの夜。 ライブオファーの募集を見て連絡くれた店長の長谷部さんに感謝、めちゃくちゃ久しぶりだった。共演者はアコギで歌っていたが、僕はサンプラー、エレキギターで爆音でライブ。お客さんはシュンペイだけだった。でもとても嬉しくて来るのを入り口で待ち構えていた。 振り返ると、様々な出来事や行動の純度は低くなる一方だけど、未来を見てると、そんなことで走り始める事が出来なかった気持ちなんて、どこかへ吹き飛んでいた。 まだまだここからだと、 続きを読む
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