2021年5月6日木曜日

傷だらけの青春に。

 


風が強い。
今日は東京の空がとっても綺麗でした。
これを見ている皆さんお元気ですか?
僕はなんとかやってます。
まだまだやらなければいけない事が沢山あるので元気にやっていかなければと思う今日この頃です。
くだらない事ばかりで頭がおかしくなりそうになるけど、多分僕は何が起こっても大丈夫って感じもあります。

長くなりそうです。
では行きますね。

あれは僕がまだ札幌の手稲ってとこにある実家に住んでいた頃。毎日、毎日部屋中に貼られたバンドのポスターやフライヤーばかり眺めながら、リンダリンダラバーソールってバンドをやっていた。札幌でライブをやりまくっていた僕は、その頃東京の街でライブをしたいと思い始めていた。東京から札幌へライブをしに来るバンド達が軒並み輝いて見えて仕方なかった。そんなバンド達が住んでいる街はどんなだろう。どんなライブハウスがあるんだろう。一度も東京に行った事のない僕はただただイメージを青い海みたいに広げていた。そして手紙を書いた。20通くらい。返ってきたのが下北にある屋根裏ってライブハウスと、新宿にあるJAMってライブハウスだけだった。二つしか返って来なかったので自ずと、その二つのライブハウスでのライブが、初めての東京になった。2011年の2月8日にはじめて下北に行った。とにかく全てが輝いていて、本当に楽しかった。トップバッターのバンドがリンダリンダラバーソールという曲をやっていた。翌日はこれまた初めての新宿に行った。新宿はとにかくデカくて、とにかく臭くて、とにかく汚くて、とにかく美しかった。色々な人達が馬鹿でかいゴミ箱のような街でがむしゃらに楽しんで生きているように感じた。JAMというライブハウスに呼んでくれたのは内藤重人という男だった。その人は逢って早々に、ツアー行かない?と言ってきた。めちゃくちゃな話だけど、僕はそれがめちゃくちゃ嬉しかった。そして、また5月にJAMに行けることになった。イベント名はJAMFES。その時がはじめての開催だった。朝から次の日の朝まで24時間ぶっ通しのイベントとの事で、僕らは三回出させてもらった。あの時もらった音楽における宝物のような時間があるから、僕は今でも歌っていられる。
それからJAMFESには毎年のように出て、上京してからもフロムTokyoで出たり、ソロで出たりした。リンラバでも四人で出た。
そして、2017年に新宿JAMが無くなって僕がJAMに出勤する時に乗っていた自転車も無くなった、というか撤去されだけだけど。僕は新宿JAMで3年くらい働いていた。

と、この辺まで書いたとこで、指が進まず、書けなくなった。5月6日の14:30にJAMFESでの僕のライブは終わった。JAMFESでやるのは初めての曲だけのセトリ。でももっと最新の曲だけでライブしたかったのが本音。

僕の思うJAMFESって何があれば成立するんだろう。今日は新宿JAMの店長だった石塚さん、一緒に働いていた同僚の矢野さんや野口さん、そしてシゲさんやアサトもいたり、新宿JAMの副店長だったカズマさんが西永福JAMの店長だったり、ホームイズのヌマタさんや、アイムホームの石垣さんもいて、あの日の新宿を思い出していた。でもなんだろう。みんなそんな事思い出してないみたいな気もした。この気持ちはなんなんだろう。

まるで何も無かったみたいだ。
もしかしたら僕の気のせいで何も無かったのかもしれない。新宿JAMなんて気のせいで、あの場所で起こった事は幻だったのかもしれない。
そんくらいまるで何も無かったみたいだった。
今日のそれはあの日のJAMFESではなかった。こんな時代なのももちろんあるけど、あの日のJAMFESとは全く別物だった。
新宿のあの感じが焼きついて離れないで、そこから僕は未だに踏み出せてないのかもしれない。
楽しかった。あの頃本当に毎日楽しかった。
あの頃良く話していた友達やバンドマンはどこへ行ったのだろう、そんな風に僕も思ってもらえてるかな。
詩を歌いたい、バンドがやりたい、と初めて思った気持ちに似ている。

僕はここにいて、ずっと忘れないでいるよ。


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