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「天」は見ている。

僕が生まれた日の事を「たま」に思い出す。
それは両親が、泰雅の生まれた日は札幌でとても早く初雪が降った日なんだよ、と教えてくれる事が何度かあったから。僕はそんなきっかけを元に、僕は、僕が生まれた日の事を「たま」に思い出す。

思い返すと本当にずっと悩んで来た日々だった。抗える事、抗えない事の分別が付けれずに、とにかくずっと悩んでいた。
落ち着いてクールな様でいて、本当は快楽主義の陽気な性格なのは、小学生の自分を思い出すとすぐに気付く事が出来た。当時のビデオ映像には、教室でフラダンスを踊りながら笑っている僕がいた。
小学低学年からは陸上の中距離をやり始めたり、スイミングスクールに通ったりして、身体の調子は本当に絶好調だった。今でもあの時の自分の身体のバランスを覚えているよ。

バンドをやり始めた頃から、そのバランスが崩れ出した。心技体とは良く言ったものだ。詩を歌いながら、バランスを整えているようで、崩していた。
時たま、それを立て直そうと試みるも、やはり上手くは行かなかった。全て自分の心の弱さが理由だ。


その頃、彼女はどんなバランスで世界と折り合いを付けていたんだろうか。



札幌という街でオリジナル曲でライブをするようになる頃、僕はスピリチュアルラウンジというライブハウスに出逢う。とても沢山の「出逢い」と「始まり」と「終わり」を頂いた。店長の新保さんはそんな事気にもしてないだろう。でも、僕はあの人が居なかったら、僕は、僕で居られなかっただろう。
スピリチュアルラウンジというライブハウスに出逢った事で出逢えたバンドの中で、「未完成VS新世界」というバンドに出逢う事が出来たのは僕の人生の宝物だ。僕の世界を変えたバンドなんだ。
札幌の中心には、狸小路商店街という「アーケード街」があって、その中にあるmoleというライブハウスでは、一年に一度は企画をやった。8月の終わりにやる事が多かった。札幌のそれくらいの季節の風は、詩を歌いたくさせるんだと思う。僕はあの頃、自分が「リンダリンダラバーソール」である事を信じて疑わず、そのものだったと思う。

年を重ね、25歳を迎えた。メンバーの人生は交差して、別々の道を歩むようになる。ドラムのゆっちとベースの外山君が抜けて、メンバー二人で這い蹲るようにライブした。何かを変えたくてツアーにも出た。東京にも何度かツアーで訪れた。その時の感動は、今僕がフロムTokyoと名乗る一つの理由になった。今では当たり前のように歩く「新宿」、「渋谷」、「下北沢」は、あの時とても特別な色をしていた。その中で出逢った人達はとても瑞々しく、その先の未来を見てみたいと思う人達ばかりだった。


その頃、彼女はどんな未来を見ていたんだろうか。




そして「リンダリンダラバーソール」は終わった。「終わらせた」という方が正しいか。2012年の8月の終わりに、「ザ・ラヂオカセッツ」と「内藤重人」を呼んだスリーデイズ企画をやった。一生忘れられない記憶。
その数日後、僕は「リンダリンダラバーソール」を解散したい、と、一緒に音を鳴らしてた奥山京に伝えた。16才で同じクラスになってから、10年が経っていた。あの当時、良く「andymori」を聞いていた。「ファンファーレと熱狂、赤い太陽、5時のサイレン、6時の一番星」、実家の部屋の窓から夕暮れの空を見て、何度もこの歌を歌った。解散を発表してから、ライブとツアーをした。8月の終わりの企画で発表した「僕らの旗」という、フルアルバムのレコ発ツアーが残っていた。全会場、全開で、全身全霊で、ズタボロで、しがみつくように歌った。
気付けば季節は冬、「リンダリンダラバーソール」は解散した。「THE BOYS&GIRLS」、「THE武田組」、「内藤重人」、「アサトアキラ」とともに。
サウンドクルーというライブハウスで、僕らの旗レコ発ツアーの最終日。
その日で一度僕の札幌での青春が終わった。

間髪入れずに歌い出して、その先に「東京」はあった。
東京で「音楽」、「バンド」をやりたいと強く思っていた、26才。ツアーで初めて訪れた東京という街がくれた感動は、僕の隋から僕を突き動かしていた。お金を貯める為にバイトを掛け持ちしながら、毎週一回、狸小路商店街で路上をやった。昼は古着屋で、夜はスーパーで深夜3時まで働いた。スーパーのバイトが終わって、二階の駐車場、「凍りついた暗闇の坂道を毎晩、上った」。その坂道を上りながら、よく「サカナクション」の「白波トップウォーター」という曲を聞いていた。
サカナクションというバンドの存在を知ったのは20才くらいの頃、リンラバの外山君と「朝比奈サイエンスアカデミー」というバンドの企画を見に行って、その時に出演したのを観たのが始まり。そして、サカナクションの音楽を良く聞くようになった25才くらいの頃、同時に東京に思いを巡らせた。サカナクションの音楽が、僕の上京の意志に繋がっていった。

2013年の5月に東京に一人で引っ越しをした。
片道切符、札幌発つ前最後の曲はあいつが一昨日に狸小路商店街で歌ってくれた歌、東京に着いて初めて聞いた歌は「mr.children」の「名もなき詩」にした。
思い返せば初めて音楽を良いなと思ったのって、mr.childrenの「口笛」という曲を聞いた14才の頃だった。
優しい音楽が好きだった。

上京してすぐに、「新宿JAM」で3年目を迎える「JAM FES」へ、ソロとしては初めて出演した。JAM FES最終日、ずっとライブでは「from北海道札幌」と言ってきたところを、初めて「フロムTokyo」と言った。最後の曲のサビ前、最後のフレーズだ。これからよろしくお願いします。という気持ちで一杯だった。
その後、すぐに新宿JAMで働き出した。ホールと受付を担当し、バータイムから誰も居なくなり日が昇るまで働いた。一人で新宿JAMを清掃し、鍵をかけ、朝になった新宿の灰色の空を何度も見た。あんなに臭いと思っていた新宿の街の匂いは、いつのまにか感じなくなっていた。入口の前に停めた自転車で甲州街道を走った。新宿の街が好きになって行くのを感じていた。

僕がJAMへ入社する前から、彼女は照明でJAMに勤めていた。金髪で背の小さい子だった。ほとんど言葉は交わさず、出退勤時の挨拶をするくらいだった。
僕が入社して少し経った頃、彼女は退社した。それからなかなか逢うことも無くなったが、共通の知人を介して、また再会したりした。ライブで一緒になったりするうちに、少しずつ話もするようになった。二人で歌舞伎町の一番ギラギラしたエリアを探検したりもした。彼女は、僕がJAMのバータイムで仕事の時は、ずっとそばの椅子に座り待ってくれていた。いつもだ。

出逢った新宿JAMは無くなった。2017年の12月31日の事だ。
初めてJAMに出た時と同じ、「リンダリンダラバーソール」として、最後のJAMのステージをやった。ライブする直前、ステージからフロアのお客さんの写真を撮った。僕が撮ったフロアの写真には彼女がちゃんと写っていた。

彼女は僕のダサイところを全て見透かしていて、小手先の中途半端で不細工な言葉は通用しなかった。悔しくて、僕はもっと大きな男になりたいと強く思えるようになった。
新宿JAMが無くなっても「僕の音楽」は止める事は出来なかったし、「フロムTokyo」を諦められなかった。ソロでアルバムを作りツアーをしても、もう一度サポートメンバーを揃えてバンド編成でライブしても、企画をやっても、ワンマンやっても、僕はちっとも満足出来なかった。そして「音楽の楽しさ」と「僕が求める幸せ」が少し違う事に気付いた。
今年の5月に「西永福に移ったJAM」で、新たにJAM FESが開催された。そこでのライブや、その直後に、新宿LOVE TKOでの奥山京とのツーマンを経た時、僕の中でクリアになった景色があった。素直にフラットに詩を歌える事、それは素直で真っ直ぐな美しい暮らしを送る事、そこから生まれる嘘偽りのない透き通る瑞々しい詩を歌いたい事、彼女の夢を叶えたい事。僕の中で、これらはその時、綺麗に並列し澱まなかった。

その直後、彼女の誕生日があった。
僕は「婚姻届」に自分の名前だけを書き、誕生日プレゼントとして彼女に渡した。
人生で初めての事というのは、やはりとても緊張した。
誰にも相談せず、その結論を素直に出せた事が自分でも嬉しく、彼女もとても喜んでいた。
そしてもう一つ嬉しかったのは、mr.childrenがメジャーデビューをした年と日が、彼女の誕生日と全く一緒だった。その事は翌日に知り「何か良かった」と本当に思った。14才の頃に初めて聞いた「口笛」のような優しい詩が歌いたいと、また強く思ったし、歌えるような気がした。

僕は音楽が好きで、歌うことが好きで、ライブが好きだ。
彼女は僕の沢山のどうしようもないステージを見ては「音楽を辞めて欲しいなんて思った事無い」と言う。
そして「部屋の中で何気なく歌っている時が一番好きだ」、とも言った。


2019.7.15
海の日、
佐々木泰雅(フロムTokyo)は人生で初めての結婚をしました。
婚姻届の証人には、新宿JAMの店長であった石塚さんと、新宿JAMでは副店長で今は西永福JAM店長のカズマさんにお願いした。

奥さんは僕よりもずっと反骨の人だ。
僕はそれに恥じない詩を、胸を張って誇らしげなメロディラインで歌って行く事を「天」に誓いたいと思います。





そして、
僕は「また」僕が生まれた日の事を思い出す。
それは両親が、泰雅の生まれた日は札幌でとても早く初雪が降った日なんだよ、と教えてくれる事が何度かあったからだ。僕はそんなきっかけや、優しい詩を歌えた時や、家族が出来た時や、誰かを愛しく尊く思えた時、僕は、僕が生まれた日の事を「また」きっと、思い出す。

ばぁちゃん、あなたが死んだ日に、家族が一人増えたぞ。



佐々木泰雅
フロムTokyo

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