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5月, 2025の投稿を表示しています

④雷

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2024年の8月になってすぐあたりに1通のメールが来ていた。浅草にある”Gold sounds”というライブハウスのブッキングをしている「としぞー」という方からだった。僕がライブオファーを待っている旨を知り、メールしてくれたみたいだ。ユーチューブなどで色々と曲を聞いてくれて、未完成の澤田さんとのツーマンの風知空知も見てくれていた。メールの文章が誠実ですぐに好感を持てて返信をした。その月の後半にすぐにイベントに出させてくれて、そういやある程度のキャパのあるライブハウスで歌うのが久しぶりだって事に気づき緊張していたのを覚えてる。 サンプラーとエレキギター、弾き語りの曲、インスト、その日自分に課した課題はクリアできたライブで、僕は少しだけ自信を取り戻していた。と同時に、この同期を交ぜたライブの辿り着く場所がどこなのか、ある程度イメージしなければいけないと感じていた。じゃないときっとまた同じことを繰り返す。 浅草という地は馴染みがなかった。ライブをするのも初めてだったし、なんというかうまく自分が混ざらないなと感じていた。としぞー君は毎月のようにイベントに呼んでくれた。10月になり、チリ共和国から「MAREO!」というユニットが来るとの事で出演させてもらった。「MAREO!」は以前にもGoldsoundsに出演した事があるようで、顔合わせ時の受け入れられ方を見て、僕よりも浅草に馴染みがあるように思えた。トップバッターでライブを終えると、MAREO!のメンバーの女性が話しかけてくれた。なんとなくライブを褒めてくれたのが伝わった。使ってるサンプラーを見て「SP。。?」と聞かれたので「404MK2」と答えると「オー!!ソーグット!」みたいなリアクションをしてくれて、この機材を使っていたのを嬉しく思った。 それからもとしぞー君は何度もライブに呼んでくれて、僕はその都度、ライブ映像を購入した。Goldsoundsの映像は、知る限り一番良いし、もちろん音も良い。 今だにまだうまく溶け込めない街だと感じる浅草、出演時間に遅れそうで走って思いっきし転んで、手を擦りむいたこともあったけど、今はほとんど治ってしまった。 まだまだ足りないのだと思う。もっとここで歌って、自分のストーリーを紡いでいかなければ、本当の擦りむいた傷は治らないのだと思う。 まだまだこのライブハウスとの続きを見たい。

③東新宿

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 2024年の6月頃に出演した阿佐ヶ谷ロンサムを機に、僕はとにかくライブがしたくて、その旨を発信していた。それでもなかなか声はかからなかったので、自分から、ラママの石塚さんに連絡した。「サブステでもオープニングアクトでも何でもよいのでステージに立つ機会を下さい」と。 石塚さんはすぐに連絡をくれて、東新宿のLOVETKOで開催される、あずま君という方のイベントに交ぜてもらえることになった。ほぼ初めての共演者ばかりだったけど、エネルギーがある日だった。僕は1曲目にストラップが切れた、でも有意義な時間に感じたライブだった。出番が終わったあとに階段で休憩していると、その日出演していたナミタさんという女性のシンガーが話しかけてくれた。何やら茅場町でライブハウスをやっているという。色々と驚きながら話を聞かせてもらい、2本のライブに誘ってくれた。1つは吉祥寺ブラック&ブルーでイベントを打つ知り合いがいるのだが、苦戦しているので出てくれないかというもの。2つ目は11月に茅場町の自分のライブハウスで言葉に特化したイベントをやるので出てくれないか。というもの。どちらもとても嬉しかったので快諾した。ナミタさんのライブがその日一番良くて感動していたので、こちらから話しかけようとしていたところってのも、なんか良かった。 最後は主催のあずま君が出演者全員への思いを弾き語る形で終幕。もしかしたら終始怖い顔をしていたかもしれないが、本当に歌わせてもらえる事に感謝していた。 東新宿という土地は、札幌に居た頃から、僕にとってとても特別な匂いを放っていた。色んな事が始まったり終わったり、投げ出したり、また走り出せる場所だ。喧噪が少し落ち着いた国道の脇で、ビルの隙間から見える東京の空を見ては、「今夜もこの街で最強のライブをしよう」と、固く何度も決意していた。

②DTM

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 2024年の春あたりにDTMの環境をレベルアップさせた。なるべく自宅で録音からMIX・masteringまでやれるような環境を作ろうと思った。その頃と同じくして、幼馴染の健太に作曲を頼まれた。健太は札幌で僕は東京なので、DTMが役立った。電話でイメージを伝えあいながら、1曲目の”hole"が春先に完成した。このメロディは、元々何年も前から頭の中にあり、良いなとは思っていたが、自分の曲として出す機会がなかなか無いなと感じていた、だから、健太の歌詞と出会えてきっと報われた。前のブログにも書いたけど、なかなかライブが出来ていなかった僕にとって、曲を作る機会をくれた健太には本当に感謝している。 健太とは小学校の寸前くらいからの付き合いで、もう30年以上の仲だ。あまり逢わない時期もあったけど、お互い音楽が好きで、また再会して一緒に曲を作るなんて、自分で言うのもあれだがとても素敵な事だ。 健太はついこの前、新しくバンド活動を開始した。20才くらいの頃に、僕よりも前に真剣にバンドを取り組んでいた頃の健太を思い出した。これからもどこまでもやっていて欲しい。 健太との共作は、4曲作って、うち2曲が配信リリースされてる。是非聞いてほしい。 hole grow up DTMを沢山触る機会をもらえた事で、昔は苦手だった同期というものが、もしかしたら自分にも合うのではないかと思うようになっていた。そして好きかもしれない、とも思うようになったし、そこに新しい可能性を感じるようになった。少しづつ自分の新しい未来が想い浮かべれるようになって新たな1歩を踏み出す勇気に変わった。

①1年前

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 長くなりそうだがゆっくりでも書いていこう。 ちょうど1年前くらいの5月にニュータウンというバンドをやっていた柳田と吉祥寺で飲んだ。その少し前に渋谷ラママで開催された「少年の叫び2024」に僕は出演していて、そこで柳田と4年ぶりくらいに再会した。柳田はGABIGABIに出演していて、アコギで歌っていた。 出番が終わった柳田に話しかけて、一緒に矢野さんがやってる「はまこ」に行った。 それから少し経って吉祥寺のハモニカ横丁で柳田と待ち合わせをした。同い年であの頃新宿JAMで何度も共演してたけど、2人で飲むのは初だった。その日のハモニカ横丁は活気があり、立ち入った飲み屋の2Fから酔った客が路地に転がり落ちてきていたりした。僕らは、何気ない音楽の話や、生活の話なんかをした。柳田は、もうすぐ2人目の子供が生まれるんだ、と嬉しそうに言った。 あれから1年経つがそれっきりまた逢えていない。またハモニカ横丁に誘ってみようかな。2人目の子供もそろそろ1才になる頃かもしれない。 柳田と逢った少し後、初めて阿佐ヶ谷でライブする機会をもらえた。下北沢のモザイクやDYキューブでブッキングを担当してたミエダさんが僕を誘ってくれた。初めて出演する阿佐ヶ谷ロンサムで、僕は初めてサンプラーとエレキギターでライブをした。めちゃくちゃ緊張したし、どんな風に思われるか、分からなかったけど、自分にはこれしかないと思っていた。その日のライブを気に入ってもらえたのか、それからはロンサム店長の森本さんが、毎月のように呼んでくれるようになった。ライブがなかなか出来ていなかった僕にとってこれ程嬉しい事はなかった。 その頃、リンラバの2023年に作成していたデモをRemixしていた。よくDTMと向き合って1日に何時間もヘッドフォンをしていた。完成したものにゆっちが映像をつけてくれて、リンラバの2023年末までの活動が一段落ついたような気がした。作成した4曲は、今でもとても特別で、まだまだ何か伝えられる力を持っていると思っている。 青春の光 OVER DRIVE 未来 メロディライン 初めてまともに田高くんと話したのもこの時期かもな。一度豪徳寺で共演しているけど、あんまりちゃんと話してなかった。LOVE TKOでワンマンを終えた彼に少しだけでも逢えて良かった。 それからまた少しライブが空くんだけど、幼馴染の健太と...

10年、

 随分とまたまた間が空いてしまったけど、思い出すたびに書きたいと思っていたこのブログ。2015年から始めたが機能していたのは僅かだったから、もっとちゃんと書いて伝えられる事は伝えたい。しばらくライブが空いているこの隙を狙って、実はずっと書きたかった昨年の夏から今この瞬間までを、分作にして書き上げたいなと考えていた。これはそれ自体を宣言する為に、自分のけつを叩く為に書いている。東京に来てから気づけば12年程が経ち、6月を前にしても、梅雨に怯えなくなった。慣れというのは凄い。それでも今でも東京に対しては途方もない程の歌う理由を持てていると信じている。窓からは涼しい夜風が吹いて、スピーカーからは阿部芙蓉美さんの詩が流れている。どんなに沢山の音楽を知っても、ぐっと来る音楽は決まってあんな曲だ。「ライブがしたい」けど、「ライブでしたい」事は何度も分かんなくなった。そんなツアーのような、僕にとっては普通の日常を書けるだけ書いてみます。