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10月, 2017の投稿を表示しています

10.30

私の窓。 10.30の東京の日の話。 雨が少し降り、風がめっちゃ強い日。 いつぶりだろうか、久しぶりのビーハプに出演させてもらう為に渋谷LUSHへ向かう。 そうか、10月の末は渋谷はハロウィンの真っ只中か、と、ゾンビ達と警察官を横目に慣れた足取りで宮益坂を登ってキンコーズの前で左折のいつもの道。 着くと大野翔平という男が歌い始めるところで、一瞬挨拶した時の感じが良い意味で引っかかり、ライブを全部見た。最後にやっていた、あした、という歌が凄く良くてグッと来た。それを翔平に伝えるととっても喜んでいて。そこから翔平が鹿児島から上京して来た事、その日暮らしの清大と友達な事、札幌にも良くツアーで行っていて、ローグで長津さんにジンギスカン振舞ってもらった事や、最近モトヨシ君と知り合った事や、、出るわ出るわで話しが尽きなくて30分くらい。セットリスト変えようかなと思うような出逢いだった。 その後、共演を心待ちにしていた元ひらくドアのタカユキカトーさんのライブを見た。何度も何度も聞いた、ミニアルバム、という歌を二曲目にやってくれて本当に嬉しかった。セットリスト全部いい曲だった。 22:40過ぎ頃。 自分の出番が来た。8月のライブ以来に使う登場SEに背中を押してもらい歌い出す。 1.マイフレンズアンセム 2.under 3.July 4.アンドロメダ 5.レインマン 今年の2月8日に当時最終少女ひかさのボーカルだった但野正和とのツーマンを下北沢SHELTERでやってから、オレの何か大事なモノが一つ終わってしまって、それから自分はどんな風にライブをすれば良いか、何を指標にして進めばいいのかわからなくなっていました。ですが、今日のライブでその突破口が少しだけ、ほんの少しだけ開けたような気がします。それは結局、自分を育て作ってくれた先輩方の歌の中に光があったんだと思います。LUSHのステージで自分が誰よりも自分の詩、信じてあげれました。それは本当に嬉しい事でした。 帰りはビーハプの水口さんとタカユキさんと一緒に渋谷駅に向かう為、宮益坂を下りました。慣れた足取りだと思ってはいたのですが、やっぱり、あぁ、東京だなと感じる自分がいて、その混沌を真っ直ぐに突き抜けるような詩がその日の自分のセットリストの最後の曲で良

10.29

私の窓。 また久しぶりの更新になりました。 佐々木泰雅です。 東京は台風が去ったと思ったらまた雨の日々です。最近はいつも雨が降ってるような気がします。 昨日。 新宿JAMというライブハウスでリンダリンダラバーソール四人揃って最初で最後の練習をしました。3人編成、2人編成で出演したり練習したりはあったのですが、フルメンバーではこれが最初で最後の4時間でした。 新宿JAM。 思い返せばキーボードのケイが通っていた大学の部室で、パソコンかりて東京のライブハウスを検索した時からの話になります。 リンダリンダラバーソールで東京でライブをしたいと、なんのコネもツテも無い札幌の無名バンドは思い立ち、東京のライブハウス20カ所くらいにデモ音源と雑な手紙を送り、その中で連絡取り合えたのが、今はなき下北沢屋根裏と新宿JAMでした。 2011年の2月8日にオレは生まれて初めての東京、そして生まれて初めての下北沢の街の、屋根裏というライブハウスでライブをします。その日出ていた国家権力ってバンドが「リンダリンダラバーソール」という曲を演奏した時は驚きました。 その翌日2月9日。 生まれて初めての新宿という街、あの時見た小田急百貨店の自動ドアの先の青くて高すぎる空は、ずっと忘れられないくらい途方も無く広かった記憶があります。 そしてJAMに着くとThree Questionsのシゲさんがいて、少し話して初対面なのに、一緒にツアー回ろうよ、とか言ってくれて、オレとJAMの出逢いはそれでした。シゲさんはライブを褒めてくれてそれがすごく嬉しかったのを覚えています。 東北大震災が起きる前の東京は、今よりもずっと夜が眩しかったです。 そして2011年5月にJAMFES初年度が開催されて、オレらは二日間で三回のライブをしました。その時に経験した思いというのはまるで音楽の宝物の時間のようでした。 新宿JAMでライブをした事がきっかけになり、札幌に初めてTHEラブ人間が来るときにソロで、またそれから二回目の来札ではリンラバで共演したりもしました。 その次の年は二人編成でJAMFESに出演しました。アサトアキラやザ・ラヂオカセッツと出逢い、僕らの街の企画に出演してもらったりしました。それはそれは忘れられない日々でした。 その年の12月14日にリンダリンダラバーソールは一度解散します。東京最終公演も、もちろん新