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5月, 2021の投稿を表示しています

偽物の言葉。

  僕としっぱいまんの話。 東京の東新宿という街の小さなライブバーで定期的にしっぱいまんと企画をやっている。 しっぱいまんは僕が地元札幌に居た頃に出逢った。2007年くらいに一方的にライブを見た時に歌っていた「小銭をじゃらじゃら鳴らしながら」って歌にグッと来てから、しっぱいまんがやってたJET THUNDERSってバンドの大ファンになった。JET THUNDERSのライブに沢山行った。アクメナイトって企画をJET THUNDERSはやっていて、東京のめちゃくちゃかっこいいバンドや札幌のめちゃくちゃかっこいいバンドが出てた。僕はそのバンド達に影響受けまくって、バンドとライブハウス以外の事はどうでも良くなった。JET THUNDERSと対バンするのが夢だったし、アクメナイトに出るのは夏フェスに出演するくらいの憧れだった。初めてアクメナイトに呼んでもらえた時は飛び上がるくらい嬉しくて、ライブスケジュールに自分のバンドの名前があるのを見て、ずっと幸せな気持ちだった。僕はJET THUNDERSのコピバンが出来る自信があった。あるアクメナイトの企画で、JET THUNDERSの曲をカバーしてくれるオープニングアクトを募集しているのを見てすぐ連絡して、出演もした。「夜はまだ始まったばかり」という曲を家でしょっちゅう歌ってた。カルトフラワーズとキンゴンズをゲストに呼んだアクメナイトに僕らもバンドで呼んでもらえた日、最後のJET THUNDERSのライブ中にステージに呼ばれしっぱいまんのギターを弾かしてもらった。しっぱいまんはダイブしてフロアにいた。ステージには、僕となおやんとジョニーさんの3人で、僕は夢を見ているのかと思った。あの日部屋で一人で夢中でコピーしていたバンドの人達と、夜はまだ始まったばかり、を一緒に演奏する日が来るなんて。僕はもしかしたらJET THUNDERSになりたかったのこもしれないとその時思った。 時が経って、なおやんとジョニーさんと離れたしっぱいまんは上京していった。 僕も上京してなんだか少し距離が近くなった。でもやっぱりあの日の2007年の小銭をじゃらじゃら鳴らしながらの衝撃が消える事は無くて、僕にとってはずっと憧れの存在のまま、だから一緒に企画なんてやりたくなかったな、ってたまに思ったりした。だから、自分のままでなんて居たくなくて、壊して再構築する意味で

また逢えるかな。また逢えるかな。

  随分と何もやれてない気がしている。 「何かやれている」って気持ちもよく分からないけど、たぶんオレは今何もやれていない。 BLOGを書いている場合じゃないんだろうけど、ご飯が出来るまでの間くらいならいいんじゃないかな。 ほとんどの時間を新宿で過ごしている。東京に一人で来たあの日から今日までの年月は、札幌でバンドをやっていた年月を越えた。もうそんなに経ったか。なんかよく分からないけど、人生の時間の進む感覚ってのは20歳でもう折り返してるらしい。頭の良い人が言っていた。僕が生きている時間は実際に通り過ぎた時間の中にどれだけあったのかな。全力で何かをやった事なんて、ほんの少ししか無かった気がする。全力ではやってるけど、気持ちの良い汗とか、気持ちのよいノリみたいなのは、ほんとに生涯を通じて少ない。何百年も先に届く音楽をやる、とかそんな感じで逃げてるみたいなのが嫌だなーと思う反面、そーゆー音楽にグッと来る自分がいる。生きている間に出来る事は少ない。 この文章を書く時間もご飯が届いたら終わり。 そして届いたので終わる。 また書きます。 みんな元気で、また必ず逢おう。

5月。

   緊急事態宣言が延長された。 正直なところ、個人的には本当にどうでもいいのだが、本当にどうでも良くない方々も沢山いて、そーゆー社会の歯車の一部な以上は意識しなくてはいけない出来事である。 しばらくニュースもまともに見てないし、SNSも僕はやってない。このブログと公式ラインで発信するくらい。初めてそれ系の事書くけど、コロナなんてマジでどーでも良いんだが、マジでどーでも良くない方々が沢山いて、そーゆー社会の歯車の一部な以上は、マスクしたりするのはある意味ちゃんと挨拶したりする今流の礼儀であったりする。狂った社会だなと思いながら、その中に溶け込んで、狂ったふりしながら、まともでいる。僕はそもそもずっと自由になりたいだけだ。愛する人達と幸せになれたらいいし、何のしがらみもない世界が良い。今んとこそれは記憶の中と、音楽の中だけだ。いつか振り返らなくても前向きになれたり、イヤホなくても世界がうるさくなくなったら良い。そしてそれはもうほっといても出来上がらないことにも気付いたから、自分で作らなくてはいけない。何かもっと生み出したい。新曲作ったりもそうだけど、もっと面白い事を思いついたり、ふざけていたい。だから、やっぱり、バンドがやりたい。僕はピン芸人には向いていないのかもしれない。昨日のJAMFESは本当に楽しかった。最後のステージにシゲさんもアサトもいて、なんだか僕は幸せだった。機材とギターを背負ってカズマさんから貰ったチャリで帰る。荷物重すぎて肩おかしくなりそうになりながらも、心は跳ねるように軽かった。ずっとここにいれるなら、ずっと居たい、と思った。みんな最悪な夜を超えて、何か手探りで探してた。笑っていたけど、本当はいつも泣いているかもしれない。生きている時間で幸せな瞬間なんてほんとに少しかもしれない。そんな時いつも音楽が助けてくれるのをみんな知ってる。 僕もきっとおんなじだ。

傷だらけの青春に。

  風が強い。 今日は東京の空がとっても綺麗でした。 これを見ている皆さんお元気ですか? 僕はなんとかやってます。 まだまだやらなければいけない事が沢山あるので元気にやっていかなければと思う今日この頃です。 くだらない事ばかりで頭がおかしくなりそうになるけど、多分僕は何が起こっても大丈夫って感じもあります。 長くなりそうです。 では行きますね。 あれは僕がまだ札幌の手稲ってとこにある実家に住んでいた頃。毎日、毎日部屋中に貼られたバンドのポスターやフライヤーばかり眺めながら、リンダリンダラバーソールってバンドをやっていた。札幌でライブをやりまくっていた僕は、その頃東京の街でライブをしたいと思い始めていた。東京から札幌へライブをしに来るバンド達が軒並み輝いて見えて仕方なかった。そんなバンド達が住んでいる街はどんなだろう。どんなライブハウスがあるんだろう。一度も東京に行った事のない僕はただただイメージを青い海みたいに広げていた。そして手紙を書いた。20通くらい。返ってきたのが下北にある屋根裏ってライブハウスと、新宿にあるJAMってライブハウスだけだった。二つしか返って来なかったので自ずと、その二つのライブハウスでのライブが、初めての東京になった。2011年の2月8日にはじめて下北に行った。とにかく全てが輝いていて、本当に楽しかった。トップバッターのバンドがリンダリンダラバーソールという曲をやっていた。翌日はこれまた初めての新宿に行った。新宿はとにかくデカくて、とにかく臭くて、とにかく汚くて、とにかく美しかった。色々な人達が馬鹿でかいゴミ箱のような街でがむしゃらに楽しんで生きているように感じた。JAMというライブハウスに呼んでくれたのは内藤重人という男だった。その人は逢って早々に、ツアー行かない?と言ってきた。めちゃくちゃな話だけど、僕はそれがめちゃくちゃ嬉しかった。そして、また5月にJAMに行けることになった。イベント名はJAMFES。その時がはじめての開催だった。朝から次の日の朝まで24時間ぶっ通しのイベントとの事で、僕らは三回出させてもらった。あの時もらった音楽における宝物のような時間があるから、僕は今でも歌っていられる。 それからJAMFESには毎年のように出て、上京してからもフロムTokyoで出たり、ソロで出たりした。リンラバでも四人で出た。 そして、2017年に